能力主義を阻む日本社会の能力平等主義

2013年1月23日(水曜日)

ダイバーシティ人材戦略を進めるにあたっての、日本社会での難しさは、日本人の特性として、組織の縦方向に対しての濃密なほどの関係性の濃さと、横方向に対しての排他的な関係性の意識があることをお話ししました。

今日は、現在必要となっている能力主義に対して、日本社会がもつ思考的特徴をお話ししたいと思います。

まず最初に「能力主義(実力主義)」がなぜ今必要になっているかからお話しします。

旧来の産業構造は、需要が供給を上回っており、製造業が重要な産業の核であり、製造業は、いかにその製造するために仕事を分析し分解して割り当てるかということが重視され、個々人の能力(実力)は一義的な重要性をあまり持っていませんでした。

安定的で、変化の少ない時代においては、効率的に作業を設計することが重要視されてきました。「職務効率主義」とでもいいましょうか。

しかし、グローバル化ならびに変化の激しい時代に入り、供給が需要を上回っている現代において、この前提条件が変わったことで、個々人のやるべき仕事が刻々と変化するとう時代になっています。

そんな、カオス状態のビジネス環境の中では、「誰がやるか」によって、業績が大きく変わってくるということが明確になりました。その結果、「能力主義(実力主義」が重要になってきたと私は思っています。

次に、この能力主義が、なかなか、日本の大企業でもうまくいかないのは、つぎの2つの日本社会の思考から来ているのではないかと、思います。

1.能力はみんな平等にある。という「能力平等主義」

2.ビジネスとパーソナルを混同する「仕事全人格主義?」

日本人は、勉強でもスポーツでも、「やればできる、能力はみんな同じようにあるのだから」という温かい平等の精神をもとに、子供から励まされて成長してきました。

従って、能力に差があるということを言ったり、言われたりすることは「あなたは、人間として劣っている」と言っているような、言われているようなタブーの世界をイメージしてしまいます。

たまたま、その仕事の能力がなかっただけなのに、言う方も言われる方も全人格の否定としての感じ方をするのではないかと思います。

日本社会の特徴は、能力は皆に平等にあるという、社会主義国家でも認められるような能力の差というものをタブー視するところに問題の一つがあるのではないでしょうか。

また、ビジネスとパーソナルの混同が、余計その問題を深刻にしていると感じます。

ビジネスの能力とパーソナルの魅力は、まったく違うものであることを基盤としていないと思うのです。

このことは、仕事を離れた場所での付き合い方に影響してきます。

たとえば、会社の上司と部下が割り勘でプライベートでゴルフに行ったとして、部下が大変ゴルフがうまく、上司に大差をつけて勝った場合でも、上司は「今日はコースが俺向きじゃなかったからな」などと能力の差を認めず会社のヒエラルキーの延長で話をしますし、部下は部下で「いや~、まぐれですよ。一緒に回ってくださった部長のおかげですよ」などとこれまた、持ち上げておくといった具合です。

会社を離れたら、パーソナルな資質で付き合うということができないため、仕事の上下関係=パーソナルの上下関係という歪んだ関係性になりがちです。

この2つの勘違いを修正していくためには、企業のトップ並びに幹部社員が、能力とはあくまでその仕事につていの認識であるということと、そのことは人格とはまったく関係がないという思想を厳格に持ち、そういう態度を常に現すことが基本であると思います。