2015年

5月

10日

憲法改正議論の前に認識すること

2015年5月10日(日曜日)

今年の大型連休は、6日終わった人と今日で終わる人とさまざまだったと思います。今日終わる人はたぶん16連休という長期のお休みが取れたのではないかと思います。

その連休の中の5月3日は、憲法記念日でした。

今年の憲法記念日で特徴的なのが、改憲派と護憲派の双方共が活発に集会を開き、参加者もかなり多かったと報道されています。

安倍政権の集団的自衛権や憲法改正の手続を簡素化する法案などが、議論を活発化させるもととなっているものと思います。

私の思っていることを素直に述べますと、まず、憲法について実はよく知らないというお恥ずかしい状況であるということです。

コンサルティングという仕事をしていますと、会社法とか税法とか手形小切手法とか、仕事に関係する法律はある程度の知識があるのですが、憲法となるともう一度しっかり読み返さないといけないというような状況です。

でも、憲法というのは、あらゆる法律の基となっているものであり、全ての法律は憲法の精神に照らして作られたものでありますから、会社であれば経営理念と同じもであり、全員が理解すべきものであるということですね。

憲法について、私も含めて国民があまり議論をしない原因の一つに、あまりに内容が根本的過ぎて、身近ではないというような意識がるのではないでしょうか?

自由・平等・平和などという、今の日本では当たり前のことのように思われている内容を、国民全体で議論するということがピンとこない人が多くなったのではないでしょうか?

でも、それは、永遠と続いてきたわけではなく70年前以前は違ったものであり、また、これからも続くという約束がされているわけでもありません。

今日、このブログで私自身も考えなければならないことは、憲法議論の前に

そもそも自由とか平等とか平和とかがどのようにして成り立っているのかということです。

よくよく考えますと、自由ということと平等という当たり前のようなことが、実は、トレードオフ(こちらが立てばあちらが立たず)というような関係にあるのではと考えます。まったくの自由競争を優先すれば、全くの平等は無くなると思います。自由競争の中で格差社会が生まれ問題になっています。

しかし、全くの平等を優先してしまえば、人間の働くモチベーションは保てないという結果に今のところ終わっています。

共産主義と社会主義という1900年代に台頭した組織においては、いまのところ成功事例はありません。

自由競争というものは、必要であるというのが中国の例を見ても明らかです。

つまり、簡単に「自由」と「平等」が完全に両立できるような組織体系は、今のところ世界中どこを探してもないのではないかということです。

従って、自由と平等はその置かれた状況によってトレード・オフのなかでバランスするしかないという考え方が必要だと思います。

また、「平和」と「民主主義」はイコールではないということも最近認識させられました。それは、北アフリカなどで起きたジャスミン革命と言われる軍事独裁政治に対するインターネットとITによる市民レベルの革命で、リビアやエジプトをはじめとして独裁者が追放され、民主的な選挙による投票が行われて、選ばれた政治家が政治を行ってきましたが、その国々の状況を見ますと、むしろ軍事独裁政権の方が安定的で平和であったという状況になってしまっています。

逆に、シンガポールのような独裁政治の下で平和と経済繁栄を果たした組織があります。

また、我が国を見れば、戦国時代を終結させ、徳川幕府を開き、将軍として各藩に対して藩主の妻子を江戸に人質として獲り、参勤交代を義務付け、各藩の貿易を禁止し、士農工商という身分制度を強いた江戸時代は、世界に類を見ない300年という平和な時代だったのです。

つまり、民主主義=平和という現象は、今のところ完全立証されていないという事実がを認識するわけです。

ということは、民主主義を是とするならば、民主と言われるその構成員が平和を強く認識して、そうなるように組織に対して貢献していかなければ、民主主義にしただけでは平和にはならないということを強く認識しなければ、仏作って魂入れずということになるわけです。

最後に、権利と責任ということについてですが、我々は、ともすれば法律というのは権利を守るだけのように思っている感がありますが、責任ということも同時に憲法で明記されています。

私が、今、思っていることは、昔のようにある一部の人が法律を作り、多くの人のものを力で奪って自分だけが膨大な富を築くというような時代ではなくなってきていて、経済発展が途上国に普及して人口が膨大に膨れ上がっており、ITや人工知能(AI)が指数関数的に発展を続ける状況を地球規模で認識する必要があるということです。

昔のように、民衆が搾取されるだけの状況では、民衆が搾取されないための権利を強調する法律でいいと思いますが、民主主義が政治の基盤となって地球規模の将来を考えていくうえで、私は、地球に対しての人間の責任ということを明確に出していく必要があると思っています。

昔のSFを見れば、今頃は月や火星で暮らしているような時代が来るはずでしたが、今になってい見れば、誰も宇宙で常時暮らしていなければ、暮らしたいと思っている人もいません。我々は、地球という1つの生命体のなかの一部であり、他の生命体と同居しています。しかし、人間だけがその数を爆発的に増やしており、他は絶滅の危機にあるという犠牲を払っています。そのつけは、我々の子孫に及ぼしてくることは間違いありません。

地球に対する責任を明確にして、その責任を成就するために権利を付与するという方向性が必要だと思っています。

人間という「群れ」を本能とする生き物は、実は、権利をあたられるだけではモチベーションは刺激されません。

これは、人材育成でよくコンサルティングする話ですが、人材を育成するためには権限移譲をしてはダメです。責任を移譲し、その責任を全うするための権限を付与するのが順番です。と伝えています。

人間は、大きな責任を与えられることで、プレッシャーとモチベーションの両方が刺激され、それを経験していく中で成長するという特徴を持っています。

ケネディ大統領が1961年(54年前)大統領に就任した際に演説した中で、みなさんもよくご存じの言葉があります。

「米国民の同朋の皆さん、あなたの国があなたのために何ができるかを問わないで欲しい。あなたがあなたの国のために何ができるかを問うて欲しい」

この50年以上前の名言を、「国」から「地」球に変えて地球人として地球に何ができるかというスタート地点に立って、憲法を考える時代に入っていると思います。