2016年

8月

21日

リオ・オリンピックで負けて謝罪する日本人の姿

2016年8月21日(日曜日)

リオ・オリンピックもそろそろ終わりにつかづいてきました。

日本としては、過去最多となるメダルを獲得し日本代表として参加された選手の皆さんの活躍に拍手を送りたいと思います。

選手の皆さんにはどんな成績であろうと、オリンピックに参加した喜びと世界レベルの戦いを経験したことを誇りに思っていただきたいと思っています。オリンピックが終わったらどんな成績であろうと笑顔で凱旋してください。

そして、その姿を子供たちが見て私も僕もオリンピックに参加したいと思えるような姿を見せていただきたいと思っています。

ただ、オリンピックの報道を見ると銀メダルという世界で2番目の成績を残しているのに、「期待に応えられず申し訳ありません」と謝罪する姿がクローズアップされたり、他の競技でも負けると申し訳ないという謝罪のコメントが多くみられます。

私の個人的な気持ちとして、立派に戦ったのであり、謝罪する必要などないし、できれば、謝罪しないでいただきたいのです。

オリンピックを見ている子供たちが、それを見て、オリンピックに出場して負けると謝罪しなければならないのかというような意識を持ってもらいたくないからです。

私と同じように思っている人は多くいると思いますが、ネットを見ていたら

8月20日(土)ニッカンスポーツ五輪コラム「為末大学」というコラムで、為末大さんが

「日本人はなぜ謝るのか/為末大学」でコメントされているので全文紹介したいと思います。

現役時代にはあまり気がつかなかったが、引退してからミックスゾーンにメディア側として立って、あらためて感じたのは日本選手のインタビューの特異さだ。成績が悪かった時のアメリカ選手が、自分なりの敗戦理由と次の目標を語るのに比べ涙を流しながら「期待に応えられずに申し訳なかった」と謝罪し続ける選手を見ていて胸が苦しくなった。

日本の選手のインタビューは似通っていると言われるが、私はその一端に、この謝罪の要求というのがあるのではないかと思う。負けた原因を分析したらいい訳と批判され、純粋な感覚を表現すれば負けたのにヘラヘラしているといわれる。選手にとっては協議をすることが一番大事だから、変なことで社会から反感を買いたくない。結局、一番問題が起きにくい謝罪一辺倒の受け答えになっていく。

選手に謝罪を要求することの弊害が2つある。と私は考えている。1つは、五輪という舞台で選手が一体どう感じるかという、その瞬間にその人にしか語れない言葉にふたをしてしまう可能性があるということだ。勝ち負けを超えて、世界の頂点の舞台で感じたことや、やろうとしたことを聞けるのは、社会にとって大きな学びになるはずだ。もう1つは、この国から挑戦心がなくなってしまうことだ。彼らは長い間トレーニングをしてきて、挑戦をし、勝ち抜いて代表になった選手たちだ。その選手たちの挑戦の部分を評価しないで、最後の結果だけで批判する。そうなれば子供たちも社会も、挑戦すること自体をやめていく。

一体どの程度の割合で批判をしている人がいるかというと、私はごく少数ではないかと考えている。私も含め多くの人は挑戦自体が素晴らしいし、一生懸命やってきたのは自分なんだから、自分の気持ちを素直に出せばいいと感じていると思う。

日本はこれから厳しい局面を迎える。超高齢社会を迎える中で、挑戦できる人たちが自分らしく挑戦していかないと生産性も高まらず、国が衰退していく。結果は運だが、挑戦は意思だ。挑戦をするという意思を持って厳しいトレーニングをし、その場に立った。結果の前にそのことをまず尊敬し、そこから視線を学ぼうとする社会であってほしいと私は思う。

以上がコラムの内容です。

私もまったく同感です。

そして、さらに日本代表ではあるけれど、あまりに国を背負っているようなプレッシャーを感じるような謝罪は、次の世代にとって重荷ならないようにしていくべきだと思います。

世界レベルで戦うことに到達するまでの挑戦のわくわく感と、実際に世界レベルの選手と戦ってみての緊張感と高揚感などを自分の言葉として伝えていただけることを私は願っています。